小沼純一
ここしばらく、『デカローグ』を見ていた。行ったり来たりしながら、そして、しょっちゅうつまずきながら。
スムーズに見られるとはかならずしもいえない。ここしばらくは避けていたいかな、とか、今日はあれとこれを、とか、そんなふうだ。とはいえ、急いで付け加えておきたいが、そんなに何度も見ているというわけではない。
『デカローグ』、1本でも成り立つけれども、やはり連作として見たい。複数でひとつの「作品」であると思うから。しかも、連作というのは、ただ一回見ただけでは摑みきれないものを持っていて、あらためてはじめから見る、順序を変えて見る、ことでまた気づくことがあったり、謎が深まったりするものだ。キェシロフスキの作品は『デカローグ』でもそうだし、『トリコロール』でもそうだ。そして、これらをひととおり見ると、今度はそれぞれの連作のみならず、『デカローグ』と『トリコロール』と、さらに『ふたりのベロニカ』をひとつのつながりのあるものをして考えている。
ぼんやりと、かつて随分熱心に読んでいた辻邦生『ある生涯の七つの場所』を想いだしたりしたのは、偶然なのか、どうか。
物語がそこにある。
どうしようもなく、ある。
説明はない。
ただ、ひとがいて、出来事があって、物語が紡がれてゆく。
見ている「わたし(たち)」は物語を変えることができない。展開を別のものにしたいのに、できない。結局、「わたし(たち)」は受けいれる。
映画にはときどき、独白がはいることがある。あるいは、ナレーションが加わることがある。だが、そうしたものは一切ない。
独白、のなさ。
ひと、というのは、こんなふうなんだろうなあ、と思う。
ひとが生きていて、部屋にいたり、歩いていたりする。それをただカメラが追っていったら、こんなふうなのだろう。昨今は監視カメラがいたるところにあるが、もし、ひとりのひとをずっと追ってゆくなら、特にひとりごちることもないひとなら、こういうふうに酷薄なありようが映しだされてしまうにちがいない。
そう、だから、二回目以降のほうが映画は見やすくなる。結末はわかっているから、それを受けいれたうえで、ヘンな言い方ではあるのだが、「安心」して見ることができる。いや、ほんとうはけっして「安心」などしてはいないのだけれど。
いま、この集合住宅のなかでおこっているさまざまなひとの、ひとたちのありようが、むしろほんのちょっとした映像が、ふと、浮かびあがってくる。
時間のかかるエレヴェータ。ひとのいない廊下。
部屋のなかでいつのまにかついているパソコンの画面。
びんたをうけた頬があかくなって、顔のほかのところの白さがなおのこと浮きたってしまうような女の子。
建物のなか、水が洩れている古びた管。
公衆便所の暗さ。郵便局の窓口のガラス。牛乳の大きな瓶。フロベールの小説を読んでいる駅員。切手。

『デカローグ』
第7話ある告白に関する物語
©1988 Telewizja Polska s.a.

『デカローグ』
第9話ある孤独に関する物語
©1988 Telewizja Polska s.a.
もちろん、とても重要で、インパクトのある映像もある。
第5話「ある殺人に関する物語」で、若者がだす若い女の子(妹)の写真。終始不機嫌なこの若者が、ガラス戸のむこうにいる女の子たちにだけみせる笑顔。タクシー運転手の頸を絞めているときになりつづけているながいながいクラクションの音。そのむこうを走り去ってゆく列車。
第7話「ある告白に関する物語」での、目立たない、あまり家庭内で発言力のない父親が手にしているのは、パイプオルガンの管だろうか。この金属の、冷たい、それだけではほとんど用をなさない管に対して、ぬいぐるみが大量におかれている家がある。
第2話「ある選択に関する物語」は、第8話「ある過去に関する物語」で、学生たちを前に語られるエピソードとなるだろう。この第2話の女性が、電話で話をする愛人は、『トリコロール/赤の愛』と同様に、声ばかりで一度も顔をだすことがない、というのも記憶のなかでは重なりあっている。
ポーランド映画に登場する男優、女優が顔をだすのが、『デカローグ』を見ていると、あたかもほかの監督の作品であっても、つながりがあるように見えてきてしまうから不思議だ。ポーランドで撮られた映画の、やはりフランスやイギリスとは違った色のかんじも関係があるのかどうか。
複数の話に顔を見せ、そのくせ台詞のない痩せた男、というのも気になる。この男、あたりまえながら、おなじ男優だが、そのときどきでやっていることが違う。何をやっているのか、どんな人物なのか、アイデンティファイできない不思議さが、記号としての役割以上のものをもって、見るものの記憶に残る。
プレイズネルの音楽についても忘れることはできない。『ふたりのベロニカ』『トリコロール』でも登場してくる架空の作曲家ブッデンマイヤーは第9話「ある孤独に関する物語」にはっきりと名をあらわすが、それらしき姿は第2話にもほのめかされている。
作品によって音楽的にも変化がつけられていて、弦楽器やピアノが中心になっている前半に対し、第6話ではアコースティックのギターが、第7話ではエレクトリック・ギターがつかわれる。第9話はといえば、声だ。『デカローグ』全体として音楽は控えめだが、最後の第10話「ある希望に関する物語」では、いきなりロック・サウンドで始まるところが、これまでと違った感触をつくりだす。この第10話には、太鼓の連打がときどきひびくのも特徴だろう。
『デカローグ』をかつて見たときは、ヴィデオ・テープだった。劇場公開前に、字幕もフランス語がついているものを、1日に何本か見て、音楽についての文章を書いた。もう10年くらい前になるだろうか。その間にヴィデオからDVDへと媒体は変化した。
近々『トリコロール』も新たにDVDとなる。キェシロフスキの「連作」を、行ったり来たりするのは、まだつづくことになるはずだ。
小沼純一(こぬまじゅんいち)
音楽文化論。早稲田大学教授。近著に『バッハ「ゴルトベルク変奏曲」世界・音楽・メディア』(みすず書房)、『あたらしい教科書 音楽』(監修:プチグラ・パブリッシング)、『サイゴンのシド・チャリシー』(詩集:書肆山田)。